グラナート・テスタメント
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この国に来る前のあの組織での記憶すら薄れつつある。 だが、それとは別に最初から完全に欠落している記憶がある。 どうやってどこで誰からあたしは生まれたのか? 赤ん坊や子供の頃の記憶がまったくない。 物心付いた時から自分は今の姿で、ただ快楽のためだけに、乾きを癒すためだけに血を求めていた気がする。 生まれつき悪い人間も良い人間も居ないという言葉があるが、あたしにだけはこれは当て嵌まらないだろう。 生まれつきあたしは『悪』なのだ。 普通の人間達の価値観で考えれば……あたしは存在そのものが悪である。 なぜなら、あたしは『なぜ人を殺していけない』のかすら理解できない。 相手がどんな悪人だろうと命を奪うのは良くないこと? 違う、どんな悪人だろうと、善人だろうと、命なんて平等に価値がないのだ。 命の価値に差があるとしたら、それは強いか弱いかだけだ。 強い命だけが弱い命を食らって生き続けることができる。 ただそれだけの話だ。 紫の髪と瞳を持つ少女もあたしと同じだと思っていた。 けれど、それは違っていた……。 ビナーが歩く度にジャラジャといった鎖の音と、重たい鉄が床を引きずるような音が響く。 「ふうう……ですわ」 ビナーはやっと目的の場所に辿り着いた。 ティファレクトの部屋である地下室の中心部。 「おはようございますですわ……ティファレクトさんんんっ!」 ビナーはやっとのおもいでここまで引きずってきた鉄球を全身の力を使って振り上げる。 そして、そのまま遠心力を利用し回転しながら、足下の棺に向けて鉄球を……。 「ふざけるんじゃないわよっ!」 いきなり、棺の蓋が勢いよく跳ね上がり、ビナーに激突した。 棺の中に居たティファレクトが内側から蓋を蹴飛ばしたのである。 「痛……酷いですわ、ティファレクト……あたくしは起こして差し上げようとしただけですのに……」 蓋が激突しただけではなく、鉄球も自分に誤爆した割にはダメージの少なすぎるビナーは抗議の声を上げた。 「あなたね……洒落にならないわよ……あたしを棺ごと粉々に粉砕する気!? 何処の世界にモーニングスターで起こす馬鹿がいるのよっ!」 「あら、モーニングという名前からして人を起こすための武器だと思いません?」 「思うかっ! 槍や剣を突き刺す殺人狂達の方がまだ可愛く思えるわ……」 棺に穴が一カ所空くだけだから、まだ被害が少ない。 「だいたい満足に振り回すこともできないそんな巨大な鉄球どこから持ってきたのよ?」 鉄球はティファレクトとビナー二人の頭を合わせた以上の大きさだった。 「買ったに決まってますわ」 ビナーは胸を張って言う。 「あたしを殺……起こすためだけに?」 「何を言ってますの? あたくしのメイン武器にするために決まってますわ。この国で回復能力を持つ者は皆さん、こういう武器を使われますのよ」 例によってビナーは自信満々に言った。 「……せめて普通のメイスやフレイル買いなさいよ……非力なくせに……」 「あら、もっとも高い武器がもっとも威力があるのは全ての世界共通の常識ですわ。だから、もっとも高かったこれを買いましたの」 「…………」 ティファレクトは沈黙する。 駄目だ、根本的に何かが間違っている、目の前の少女は……。 「それにしても、よく直前でお目覚めになりましたわね?」 「直前じゃないわよ。あんな鉄球を引きずる音や鎖の音がしたら誰でも目が覚めるわよ」 毎朝、ケセドやネツァクの僅かな気配や物音で目を覚まさなければ命がない鋭敏な感覚を持つティファレクトならなおさらな気づかないはずがなかった。 「それは盲点でしたわね。隠密性に改良の余地がありですわ」 そういえば、鉄球を振り上げた瞬間にもビナーには『殺気』が欠片もなかったことにティファレクトは気づく。 ネツァク達達人のように殺気を意識して消せるのではなく、殺気など持たずに人が殺せるのだろう。 ケセドが甘やかしたせいで、文字通り『無邪気』な少女に育ったビナーは、邪気や悪意など持たずに、どこまでも残酷なことができた。 残酷なことを残酷だと、悪いことを悪いことだと認識すらしていないのだ。 無邪気ゆえの残酷さとはよく言ったものである。 この辺はミーティアあたりにも共通することだが、精神年齢はミーティアよりもビナーの方が幼いかもしれない。 「自分が使いこなせない武器は武器にならないわよ、ビナー」 使いこなせていない武器の方がある意味怖いような気はした。 希に、使い手自身にすらどうなるか解らない動きや効果を発揮したりする。 それを予測するのはどんな達人でも不可能だ。 「そうそう、あたくしがプリーストになったら、ストノとかいうモーニングスターより重量のある武器で起こして差し上げますわね♪」 ストノというのがどんな武器か知らないが、ビナーがプリーストに転職できる日が一生訪れないことをティファレクトは祈らずにはいられなかった。 朝食後、今日は部屋で勉強をするか、外で魔物で魔法の実践をするか考えながら、居間でまったりとしていると、ネツァクが武器の手入れを始めた。 紫の宝石のようなものが刃になっている特殊な剣。 この国は勿論、前の世界でもこんな武器はネツァクの持っている者以外に見たことがなかった。 「ねえ、ネツァク」 「なんだ?」 ティファレクトが声をかけると、手入れを続けたままネツァクは応じる。 「あなた、この国で暗殺者になってからもそれを使っているの?」 「基本的にそうだ。何か問題があるのか?」 「別に問題はないけど……この国の暗殺者ってカタールとかっていう柄頭の無い突き刺すためだけの武器か、両手で二つ剣を使ったりするんじゃないの? そのための技術や術なんかも発達してて、ギルドで習うって聞いたけど」 「そんなことか」 ネツァクは鼻で笑った。 「技術自体は無駄にはならないからそれなりにちゃんとマスターしたさ、この国の殺しの技もな。昔より、左右の手で武器を使い分けるのは上手くなったぞ。だが、私は基本的に自分の殺しのための武器を、殺し方を変えるつもりはない」 ネツァクは剣を愛おしげに見つめる。 「この剣以上に私と長い時間一緒に居たものは居ない。この剣に特殊な能力が無かったとしても、私はこれを使う……まあ、愛着というものだ。自分の命を預ける武器ぐらいもっとも肌に合うものを使って構わないだろう? まあ、ビナーのように武器は威力が全てといった考えで次々に買い換えるのもありだがな……」 いつもに比べ饒舌に語るネツァクの表情は珍しく穏やかだった。 「愛着ね……」 武器を持たない自分には理解できぬ感覚である。 この国で魔術師になる以前も、武器として使っていたのは自分自身の牙や爪、拳や蹴りだった。 そういえば、あの女も特殊な武器を使っていた……自分から全ての力を奪ったあの女も……。 「どうかしたか?」 「……え? ええ、なんでもないわ」 「そうか」 ネツァクは無言で剣の手入れに冒頭する。 ティファレクトももうネツァクに特に話しかけることはなかった。 静かに時間だけが流れ、やがてネツァクは手入れを終える。 「武器には何の罪も無い。罪があるのは人間だけだ」 人間という言葉を口に乗せた瞬間、ネツァクの顔から穏やかさは消えた。 ティファレクトは、ネツァクが先ほど剣に向けていたような愛おしげな眼差しを人間に向けていたことを見たことは一度もない。 ケセドのような侮蔑(妹以外の人間は無価値)とは違う、明らかな憎悪をネツァクは抱いてるようだった。 全ての人間に対して。 最初、ネツァクも自分と同じように、他者の命を奪うことに何も感じることができないのだと、命を奪うという行為に快感を妙な安堵感を感じているのだと思っていたが、どうやら全然違うようだと最近気づいた。 自分にはネツァクのような憎悪は存在しない。 ただ何も感じない、なんとも思っていないだけだ。 自分が憎悪を、拘りを持っている人間はこの世に二人だけしかいない。 他の人間などどうでもいい。 憎くもないが、間違っても愛おしいなどと感じることもなかった。 「……ねえ、ネツァク、なんでそんなに人間が憎いの?」 無意識に尋ねていた。 答えてくれることは期待していない。 そもそも、こうやって他人に干渉すること自体らしくないのだ。 「……この国には私やケセドのような髪や瞳をした者もよく居る……」 一見関係ないようなことをネツァクは言う。 「そうね。染めているのか、生まれつきなのか解らないけど、カラフルな国よね」 「カラフルか……平和な国だな」 何が可笑しかったのか、ネツァクはクククッと笑った。 「だが、私達の国ではどうだった? 紫や水色の髪や瞳の人間など普通に居たか? 答えは否だ。そう、ただそれだけのくだらない話なんだ」 確かに、普通に存在する髪の色は金や茶や黒ぐらいで、後は銀や白や赤が僅かにあるだけだった気がする。 「色にはイメージがある。国、あるいは個人よってイメージが微妙に違うだろうが、普通黒からイメージするのは闇や悪、間違っても光や善をイメージするものは普通はいない」 「そうね……普通、光のイメージは白か黄色よね」 「そうだ。では、紫からイメージするものはなんだ?」 ティファレクトの脳裏に三つほど言葉が浮かんだ。 高貴、悪趣味、魔性。 紫という色は良くいえば高貴で派手なイメージが、悪く言えば悪趣味なイメージがする。 そして、何より、禍々しい気がした。 白の汚れの無い美しさや、黒の落ち着いた安らぎとは違う、なんとも言えない不安感をかき立てる色。 「イメージだけではなく、妙な迷信もあったのだろうな……紫の瞳を持って生まれてきた私は化物扱いされて育ったよ」 「…………」 「人権どころか、生きる自由すら認めてもらえなかった。石をぶつけられるぐらいならいい、幽閉や隔離されるぐらいならいい、仲間外れにされようが、疫病のように避けられようが構わない…………だが、辱めを受けるのと命を奪われるのだけは嫌だった。だから……逆に私が命を奪ってやった」 ネツァクは笑った。 自嘲とも自虐ともつかない笑み。 「私が無抵抗なことがこの世の絶対の決まりでもあるかのように、私を蹂躙するのが当然の権利であるかのように思っていたのか、私が抵抗するのを信じられないといった顔をしたまま皆死んでいったよ……傑作だったな」 「殺されて当然の奴らね……」 ティファレクトはネツァクが酷いとも、殺された者が哀れだとも思わない。 人を殺す者は常に殺される覚悟があって当然だ。 だが、虐めとか迫害とかする人間は自分達が集団であることで強者と勘違いしていて、自分の方が傷つくことは絶対にないと安心して残酷な行為を行う。 そんな馬鹿者達は殺されて当然だ。 被害者であるネツァクには復讐する権利もある。 ここには、どんな理由があろうと人の命を奪うのは許されないことだとなどと綺麗事を言う人間は一人も居なかった。 「フン、つまらない話をしたな」 ネツァクは話を切り上げると、立ち上がる。 「人を殺す術以外何も知らない私が、殺しを生業にするようになるのは自然な流れだった。それに、命を奪うことに罪悪感を感じたり、命を奪ってはいけないという倫理観もなかった。それどころか、いつの頃からか、他者の命を奪うと妙な安堵感を感じるようになった」 「人間に対する憎悪や嫌悪が、罪悪感や倫理観を打ち消したのね……」 「フッ、そんなところだろうな」 ネツァクはそれ以上何も言わずに部屋から出ていった。 他者の命を奪うと妙な安堵感を得るということだけは自分とネツァクは共通している。 それは『殺人』という名の麻薬の中毒になっているということだろうか。 この麻薬によって得られる安堵感はとても刹那的なもので、効果も徐々に薄れ、より多くの命の犠牲を必要とするようなる。 「まあ、正常な人間……平和に平凡に生きている人間から見たら……あたしもネツァクも狂っているように見えるでしょうね……」 人をただの一人も殺したこともない人間の考えが自分に理解も想像できないように、自分の考えもまた常人には理解できず異常にしか見えないだろう。 別にそれはそれでいい。 ただ、憎悪も嫌悪もなく人の命をいくらでも奪える自分はネツァク以上に異常なのかもしれない……。 |