月華音姫(つきはなおとひめ)
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中庭に向かって歩いていくと、音の正体はすぐに判明した。 中庭にある並木道の途中。 筆や墨汁を持って、1人の女生徒がうずくまって作業をしている。 それはとても幻想的な光景だった。 知らぬ間に、別のゲームの世界に迷い込んでしまったかのような……。 そんな錯覚を覚える光景だった。 「…………」 ホームルームまで後数分しかないのに、あの女生徒は何をしているのだろう。 「……もしかして、時計を持っていないのかな?」 いや、そういう問題でもない気がする……。 ……だが、見かけてしまった以上、無視するのも人の道に反すると思った。 驚かさないように、そっと近寄って、話しかけることにした。 「もしもし、もうすぐホームルームだけど……」 「…………?」 うずくまった女生徒が顔をあげる。制服には三年生を示す色のリボンがあった。 上級生の女生徒は、手に筆を持ったまま、ぼーっとこちらを眺めている。 メガネごしの女生徒の瞳は、魂を吸い取られそうなほど、妖しげだった。 なんて言うか、話しかけなければよかった思えるほど得体の知れない瞳。 状況は一目どころか、百目見ても訳が分からなかった。 見知らぬ上級生は汗一つ書いてない、異常なほど涼しげで、ホントに真剣に作業していたのか疑わしげだ。 「…あの……なんでしょう?」 「……いや、たいしたことじゃないんだ。何をしているのかなと思って……」 「…見ての通り、習字をしている最中です」 うん、それは見れば解ったが……あまりに幻想的(非現実的)で認めたくなかった。 「いや、そうじゃなくてさ、どうしてそんなことをしているのかなって」 「…お米券が足りなくなったんです……」 「はい?」 「……私、常に数枚のお米券を携帯していないと……我慢できなくなってしまう人なんです。なんていうか、その……落ち着かないんです……」 落ち着かないから、自分で制作して補給しているらしい。 「……金券偽造は犯罪じゃないんですか……」 なんというか、危険な先輩だ。 「それに、こんな時間にこんな所で制作しなくても……」 「……お米券が無いと禁断症状が出るんです……」 「…………」 「………………」 「…………………」 「…それで少し迷ったんですが、用務員さんにお習字セットを借りて作ってしまうことに決めたんです」 以上、説明終わりです。 不思議なダンス(お辞儀)をして、先輩は再びトンテンカンと筆を振るい始めた。 「…………て、トンテンカン!?」 なぜ、トンカチみたいな音が出るんだろう? 「…金属製のお米券ですから……」 「なっ!?」 「…冗談です」 「………………」 表情をまったく変えずに冗談を言わないで欲しい。 「……話は解ったけど、そこまでにしたらどうですか? 朝のホームルームまで後五分もないんだし、そんだけ(五、六枚)あればとりあえず足りるでしょう?」 「…まさか!」 パキン!と筆を握りつぶすと、メガネの上級生はクイクイッと腰を振った。 「…この程度の枚数では安心して授業が受けられません……きっと、内職(お米券制作)をしてしまって、先生に怒られてしまいます」 先輩は文鎮を握りつぶしながら力説する。 「……まあ、内職していたら怒られるわな、そりゃあ」 「…だから今のうちに作ってしまうしかないんです」 言って、先輩は慣れた手つきで犯罪行為(偽造お米券作成)を再開した。 ザシュザシュッ!と筆が紙に文字を書く音が響く。 ……見れば、用紙の枚数は十や二十ではなかった。 この正体不明な上級生1人では、全部書き終わるのに何時間かかるか予想できない。 くわえて、トドメとばかりに予鈴が鳴り響いた。 「……一時間目が始まったか……」 ああ、こうなったらもうヤケだ。 無言で座り込むと、犯罪行為を手伝い始めた。 いざ、手伝ってみると、犯罪行為はそう難しいものではなかった。 先輩は生まれた時からずっとやっているのかのような慣れきった手つきで作業こなしたからだ。 先輩の体の動きは、アマデウスがピアノを奏でるかのごとく、美しく華麗で優雅で、見ているこっちが虜になってしまうぐらい、なんというか美しすぎる人だった。 ……そうして気が付けば、書くべき用紙は後1枚だけになっている。 あれから三十分ほど経っている。 これ以上の寄り道はできないし、後一つだけなら先輩だけでも問題ないだろう。 「それじゃあ、俺はこれで」 立ち上がって、ズボンのホコリをはたく。 メガネの上級生は俺と同じように立ち上がると、さっきのように、ぼーっとこっちを見つめてきた。 「…………?」 はて、そういえばこの先輩は誰だろう。 あまりに幻想的(おかしな)行動をとっているので考えもしなかったけど、この人は美人だと思う。 これほどの美人なら、男子生徒の間で『三年にメガネをしてても美人、メガネを外すともっと美人の先輩が居る』なんて話が流れてきそうなものだけど。 「あの、俺、行きますけど、先輩もほどほどにしておいた方がいいと思いますよ」 はい、と彼女は素直にうなずく。 「…ありがとうございます……手伝ってくれて、助かりました……」 ぺこりと彼女はおじぎをする。 「…それじゃあ、休み時間にご挨拶に行きますね……ちゃんと、手を洗って置いてくださいね、美坂さん……」 「先輩もな」 手を上げて立ち去る。 ……て、ちょっと待った。 「……あれ? 俺、先輩と前に会ったことあったっけ?」 呆然とした表情で俺は先輩を指さした。 「…忘れられてる?……がっくりです」 忘れている? いや、そんなことはないと思う。これだけの美人と何かあったら、忘れる方がどうかしていると思うんだけど……。 「…恨みます……」 彼女は恨めしそうに下から覗き込んでくる。 その瞳には確かに覚えがあった……よう……、な ……そういえば一度か二度か、どこかで挨拶をかわした事があった……っけ? 「…………ナギー先輩だっけ?」 恐る恐る彼女の名前を口にする。 「…はい、そうです……美坂さんはぼーっとしていますから……忘れっぽいんですね……」 「…………」 先輩にだけは言われたくない気がした。 「…それではまた」 ナギー先輩はもう一度ぺこりとおじぎをする。 それをぼんやりと眺めてから、どこか合点のいかない心持ちで校舎へと歩き出した。 第3回へ続く |