月華音姫(つきはなおとひめ)
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気がつくと病院のベットにいた。 カーテンがゆらゆらと揺れている。 外はとても良い天気で、 かわいた風が、夏の終わりを告げていた。 「初めまして、美坂祐一君。回復おめでとう」 初めて見る、お姉さんはそう言って握手を求めてきた。 清潔な白衣の下の通天閣と書かれたシャツもこのお姉さんにぴったりだった。 「祐一君は私の行ってることが解るかい?」 「……いえ、俺はどうして病院なんかにいるんですか?」 「覚えていないのか。君は道を歩いてるとき、自動車の交通事故に巻き込まれたんだ。胸にガラスの破片が刺さって、とても助かる傷じゃなかった」 白い服のお姉さんは無表情のまま、お医者さんらしくないこと言う。 酷く、気分が悪くなった。 「……眠いです。眠って良いですか?」 「ああ、そうするといい。今は無理せず体の回復につとめるがいい」 お医者さんは無表情のままだ。 「先生、一つ聞いて良いですか?」 「何かな、祐一君」 「どうして、体中にそんなラクガキしているんですか? この部屋もところどころヒビだらけで、今にも崩れてしまいそうですが」 お医者さんはほんの一瞬だけ表情を崩したけれど、すぐに無表情に戻って、カツカツと歩いていってしまった。 あのラクガキをナイフで切ると、それがなんであろうと綺麗に切れた。 力なんていらない。 紙をはさみで切るように簡単に切ることができた。 ベットも、机も、イスも、壁も、床も。 試したこと無いけど、多分、きっと、人間も……。 ラクガキはみんなには見えていないみたいだ。 なぜか、自分にだけ見える黒い線。 それがなんであるか子供である自分にもなんとなく解ってきた。 アレはきっとツギハギなんだ。 手術をして傷を縫った所みたいに、とても脆くなった所だと思う。 だって、そうでもなければ子供の力で壁が切れるわけがない。 ……ああ、今まで知らなかった。 世界はツギハギだらけで 、とても壊れやすい所だったなんて。 病室には居たくない。 ラクガキだらけの所に居たくない。 だから、ここから逃げ出して、誰も居ない遠い所に行くことにした。 でも、胸の傷が痛くて、少ししか歩けなかった 気が付けば、自分が居るのは病院の近くの野原で、誰も居ない場所になんていけなかった。 「……ぐふぅ!」 胸が痛くて、すごく悲しくて、地面にしゃがみ込んでせき込んだ。 誰も居ない。 夏の終わりの草むらの海の中。 このまま消えてしまいそうだった。 けれど、その前に。 「そんなところでしゃがみ込んでいると、踏み潰しますよ」 後ろから女の人の声がした。 「え?」 「え、じゃありません。あなたは虫螻のように小さいのですから、うずくまっていると踏み潰したくなってします。気を付けてくださいね、あやうく踏み潰す所だったんですよ」 菩薩のような笑顔で三つ編みの女の人は俺を指さした。 …………なんか、かなり怖かった。 「……踏み潰されるって、誰に……?」 「フフフッ……お馬鹿さんですね。ここにいるのは、あなたと私だけなんですから、私以外に誰が居るというのですか」 三つ編みの女の人はニッコリと笑顔を深めて言った。 「まあ、ここであったのは何かの縁ですね。暇つぶしに話し相手になってくださいね。私は水瀬秋子といいます、あなたは?」 まるでずっと主従関係だったように、命令口調というか、決めつけで言いながら、手をさしのべてきた。 断ると恐ろしい目に会いそうな気がして、俺は美坂祐一と自分の名前を言って、女の人の異常に冷たい掌を握り返した。 女の人とのおしゃべりはとても楽しかった。 この人は俺の言うことを『子供だから』といって無視しない。 ちゃんと1人の下僕の進言として聞き入れてくれる。 いろんなことを話した。 俺の家のこと。歴史の古い華族の家で、とても行儀作法にうるさいこと、お父さんがとても厳しい人だということ。 香里という妹がいて、とても大人しくて、いつも俺の後をついてきていたということ。 広いお屋敷だから、森のような庭で、香里と一緒に友達と遊んだこと。 ……女の人から感じる得体の知れない恐怖を誤魔化すように、いろいろなことを話した。 「あらあら、もうこんな時間。ごめんなさいね、祐一さん。私、夕飯の支度があるので、お話はここまでにしましょう」 女の人は立ち去っていく。 ……やっと解放されるのかと思って、ホッとした。 「じゃあまた、明日。この場所で待っていますからね。逃げたら殺しますよ」 「あ……」 女の人はまるで、まるでそれが当たり前だ、というように去っていった。 「また……明日」 また、明日。今日みたいな話をしなければならない。 恐ろしい……。 でも、なぜか少し嬉しかった。 そうして、午後になると野原に行くのが強制的に俺の日課になった。 女の人はおばさんと呼ぶと怒る。怒って、本気で俺を殺そうとする。 まだ、28歳だからだそうだ。 考えたあげく、なんとなく怖い人だから「秋子さん」とさん付けで呼ぶことにした。 秋子さんはなんでも真面目に聞いてくれて、俺の悩みも全て一言で片づけてくれる。『了承』と『却下』の二つの言葉だけで……。 事故のことでネガティブになってた俺は、秋子さんのおかげで、少しずつ元の自分に戻っていけた。 あんなに怖かったラクガキのことも、秋子さんに比べれば全然怖くないことに気づいた。 だから、どこの誰か知らないけど、もしかしたら秋子さんは『この世でもっとも恐ろしい存在』なのかもしれない。 でも、そんなことはどうでもいいことだと思う。 秋子さんと居ると、怖いけど楽しい。 大事なのは、きっとそんな単純なことなんだ。 「秋子さん、俺、こんなことができますよ」 ちょっと驚かせたくて、病院から持ち出した果物ナイフを使って、野原に生えていた木を斬った。 あのラクガキみたいな線をなぞって、根本から綺麗に切断した。 「すごいでしょう、ラクガキの見えてるところなら、なんだって簡単に切れるんだよ。こんなこと秋子さんにもできないよね」 「祐一さん!」 ドコオオン!と頬を殴られた。 「秋子……さん……?」 「あなたは今、とっても身の程知らずで生意気な言葉を口にしました」 秋子さんは凄く殺気の籠もった目で見つめてくる。 ……理由はすぐに解った。 確かに身の程知らずな発言だった。 今、自分がした発言はとても危険な発言だったと思い知った。 「……ご……ごめんなさい……許してください、秋子さん……」 気が付くと、命乞いをしていた。 「祐一さん」 ふわりとした感覚。 「私に不可能はありません。確かに祐一さんは身の程知らずな発言をしたけど、私に逆らう気がないのは解っています」 秋子さんはしゃがみ込んで、俺を抱きしめていた。 「でもね、祐一さん。今、叱っておかないと、祐一さんは逆らってはいけないものに逆らって早死にをする。だから、私は謝りません。そのかわり、祐一さんは、私を倒す自信と覚悟があるならいつでも挑んできて構いませんよ」 「……ううん。秋子さんのこと好き(怖い)から、逆らったりしないよ」 「……そう、ホントに良かった。私が祐一さんに出会ったのは一つの縁だったみたいですね」 そうして、俺の見ているラクガキについて聞いてきた。 この黒い線のことを話すと、秋子さんはいっそう強く、抱きしめる腕に力を込めた。 「……祐一さん、あなたが見ているのは本来見えてはいけないものです。『モノ』には壊れやすい箇所があります。私のような不変な存在と違って、『モノ』は壊れるがゆえに完全じゃないのです。祐一さんの目は、そういった『モノ』の末路……言い換えれば未来を視てしまっているのでしょう」 「……未来を視ている?」 「そうです。それ以上のことは知らなくて良いです。どうせ、祐一さんの頭では理解できません」 「…………秋子さん、俺のこと馬鹿にしてます……?」 「いいえ、正当に評価しているだけですよ。ただ一つだけ知っていて欲しいのは、決してその線をいたずらに切ってはいけないということ。祐一さんの目は『モノ』の命を軽くしすぎてしまいますから」 「……はい、秋子さんが言うならもうしません。それになんだか胸が痛い……ごめんなさい、秋子さん。もう二度とあんなことしませんから」 「……良かった、祐一さん。今の気持ちを決して忘れてはいけませんよ。そうしていればあなたは少しは幸せになれるかもしれないから」 そうして、秋子さんは俺から離れた。 「でも、秋子さん、この線が見えていると不安なんです。だって、その線を引けばそこが切れてしまう……つまり、俺の周りはいつバラバラになってもおかしくないってことになりますよね」 「そうですね。その問題は私がなんとかしてあげましょう。それが、私がここに来た理由のようですから」 やれやれですね、と溜息を吐いてから、秋子さんはニッコリと笑った。 「祐一さん、明日はあなたにとっておきのプレゼントを差し上げますね。私があなたを以前の普通の生活に戻してあげますね」 次の日 丁度、秋子さんと出会ってから七日目の野原で、秋子さんは大きなトランクをさげてやってきた。 「はい、これを食べれば妙なラクガキは見えなくなりますよ」 秋子さんくれたのはジャム瓶だった。 「俺、朝はパンじゃなくてご飯派なんですけど……」 「いいから食べなさい。ジャム単体で食べても美味しいんですから」 秋子さんは無理矢理、俺にジャムを食べさせた。 とたん…… 「げふほっ!」 俺は意識を失った。 「ホントはこの眼鏡がプレゼントです」 「うわあっ! すごい! すごいです! 秋子さん! ラクガキがちっとも見えない!」 「当たり前です。わざわざあの人を仕留めてジャムの材料にしてまで作った秋子特製謎ジャムなんですから、粗末に扱ったらただじゃすましませんよ、祐一さん」 「いえ、ジャムじゃなくて、眼鏡のことなんですが……でも、秋子さんって凄いですね! あれだけ嫌だった線が消えて……なんだか、魔法みたいです、コレ」 「それも当然です。なぜなら、私は魔法少女ですから」 得意げに笑って、秋子さんはトランクを地面に置いた。 「少女って歳じゃ……いえ、なんでもありません……」 「でも、祐一さん。その線は消えた訳じゃありません。ただ見えなくしているだけ、ジャムの服用を辞めればまた見えてしまう」 「……そうなんですか?」 「ええ、そればかりはもう治しようがありません。祐一さんはその目と折り合い付けて生きていくしかありません」 「嫌だ……またあの線を切ってしまったら、秋子さんとの約束を守れなくなってしまう」 「ああ、もう二度と線を引かないと言うアレですか。お馬鹿さんですね、あんな約束気軽に破っていいんですよ」 「……そうなんですか? でも、もの凄くいけないことだって……」 「そんなこと言っていませんよ。ただ、下手にその力を使うと祐一さんが不幸になる可能性が高くなると言っただけです」 「……あれ、そうでしたっけ?」 「それはあなた個人の力なんですから、使うも使わないも祐一さんの自由です。ただ、祐一さんは個人の保有する力のなかでもひどく特異な能力を持ってしまいました。まあ、私ほどじゃありませんけどね」 「…………」 「神様は必要の無い力を与えたりはしません。あなたの未来にその力を必要とする時が来るからこそ、その直死の魔眼があるとも言えます。だから、祐一さんの全てを否定したりしませんよ」 秋子さんはしゃがんで、俺の視線と同じ高さの視線をする。 「でも、だからこそ忘れないでください。祐一さんはとても単純な心をしている。いまのあなたがある限り、その目は決して間違った結果は生まないでしょう」 「単純……」 「十年後には私と祐一さんの年齢差も縮まってますね。お似合いのカップルになれるかもしれません」 そう言って、秋子さんは立ち上がるとトランクに手を伸ばした。 「あ、でも余程のことがない限り、眼鏡を外してはいけませんよ。いくら似合わないからって……」 トランクが持ち上がる。 秋子さんは何も言わないけど。 俺は、秋子さんがこの先十年間歳を取るつもりがないんだと解ってしまった。 「それじゃあ、お別れですね。祐一さん、どんな人間だって人生は落とし穴だらけなんです。この私ですら例外ではありません。まあ、だからこそ楽しいんですけどね。あなたは人よりそれをなんとかできる力があるんだから、もっとシャンとしてくださいね」 秋子さんが行ってしまう。 とても悲しかったけど、同時にどこかホッとしていた。 「…………はい、さよなら、秋子さん」 「上出来ですよ、祐一さん。次ぎに私と出会う時まで元気でいてくださいね。いいですか、ピンチの時クールに決めるんです。あなたなら1人でも大丈夫なはずですよ」 秋子さんはクールに笑う。 ざあ、と風が吹いた。 草むら一斉に揺らぐ。 秋子さんの姿はもうなかった。 「バイバイ、秋子さん」 言って、もう会えないんだと実感した。 残ったのは秋子さんに対する絶対の恐怖心と、この不思議な眼鏡だけ。 たった七日間だけだけれど、この世の真理を教えて貰った気がした。 ぼんやりとただずんでいたら、目に涙が溜まった。 ……ああ、俺はなんて馬鹿なんだろう。 俺は怖がるばかりで、 あの人に、ありがとうの一言も伝えていなかった。 俺の退院はそれからすぐだった。 退院した後、俺は美坂の家ではなく、親戚の家に預けられることになった。 けれど、大丈夫。 美坂祐一は1人でもちゃんとやっていける。 新しい生活を新しい家族と過ごす。 美坂祐一の九歳の夏はこうして終わった。 |